木曜日, 6月 01, 2006

いまの気持ちにフィットするように、表現を転がすこと

毎月一日は映画が千円ということで、自転車でジャスコのシネコンに行った。期待値高めに「嫌われ松子の一生」(監督,中島哲也/中谷美紀、瑛太 /2006)を見る。昨晩、テレビでやっていたものを録画しておき、「下妻物語」(同監督/深田恭子、土屋アンナ/2004)も見たのだ。
この監督は出し惜しみをしない。
ありとあらゆる要素を、効果的に料理するという正攻法を知っている。全シーンに渡って即答してくる映画だ。こまっしゃくれた比喩は語らず、理屈抜きに持っていく。
漫画ならば大きなフキダシに大きな活字で書かれるであろう、意志のある答えのような台詞を、鑑賞者にしっかりと言い聞かせるかたちで、登場人物が言う。 CMのコピー並みの速度で出されるが、コピーではなく台詞なので、やや理屈や説教臭くなる印象を持つ。その言葉を鑑賞者が言葉のままでこねくり回すのは映 画の後にして下さいというように、魅力的な映像表現で理屈っぽくなるところと折り合いをつけ、総合性を持ち、それを言葉だけではなくさせるのだ。劇場の外 に持ち帰る台詞は、映画そのもの。言葉のままで解釈することは不可能になっている。CMコピーが映像とあいまって視聴者に届くのとその速度が似ている。
「嫌われ松子の一生」では、ミュージカルとしてそれを多用。歌詞は人生の背景で、常に人々の気持ちを代弁する。いまの気持ちにフィットするように、表現を転がすことが、一番重要なことだなと思った。
そのために生きている人間像を、原色のリアルで描いている。
強烈なコントラスト。人間の網膜は印象的にそれを残す。ロリータとヤンキーのコスプレ、幸せを求めすぎる故に不幸になる女、どれも剥き出しの原色。
人の一生に価値付けなど存在しない。でも、人は自分の一生に意味を見出したいから、様々な理由を探す。その理由が他者に合否されるものでは、本当はない。
誰が見ても頷きそうな、第三国でのボランティアを理由づけに掲げるのではなく、自分の生きるこの直接の周囲、この日本の町にある、誰もがさげずむ者にも一生の理由はあるのだと、男は見た。

自由を求めてと書けばたやすい。その為に戦争をするだけでは能がない。直接に、触れられる抵抗が、画面に映る。電車や車にぶつかる瞬間まで描くこと、企業や団体名、商品名などを正式名称で登場させること、登場人物の名前の連呼。
これら直接的な視野を以て、現代の姿無き戦争が起こっていると浮かび上がる。

帰宅してテレビを見れば、本日より駐車違反の民営取り締まり開始。ゴミ屋敷を奇麗にしろと、マスコミが奇麗な顔しておじさんを追い回す。何も直視することができぬよう、洪水状の表現にして現実の映像はもみ消されていた。
中島監督の映画は、カット数やCGは多いが、流れ去る洪水ではない。表現についての正攻法は激しくこびりつく。網膜、身体に。現代に通用する、元気なんだよなと考えた。

http://www.shimotsuma-movie.jp
http://kiraware.goo.ne.jp