日曜日, 5月 28, 2006

作品のもとって

些細な仕事に過ぎないことで、心の動きをあらわそうとする。心の動きは些細だと限らない。それに条件を当てはめるのは避けるようにして、味噌蔵に居た。不満があるのも無理は無い。何の答えも明示はしておらず、迷いの姿のみがあるとされてもおかしくはない。もう分りきったことだった。これくらいの奇麗な感じなら、上手い奴は出来るさ。そう思ってみる一日だった。
蔵の中庭に面した、軒下に座って、皆と雑談をしていたとき、未だ見つからぬ作品のピースを隠したままの島さんが「作品をつくるときって、何からもってくるんですか?」という質問を言った。細かくは異なるかもしれない。本日分の日記は思い出して書いているから、島さんの意図は違ったかもしれない。問題はその事実よりも、その質問が良いなと思っていることだった。いまもそれを気にしている。その時間は「作品のもと、というもの自体が仮想めいたもので、実はもと自体は作品によってしかあらわれないんじゃないか、だとしたら、もとなんてものは無いんじゃないの?」なんて、理屈をこねくり回した返答をしてしまったのだが。いまはよく分らない。ただ、思うのは、構図めいた、もとネタが世界にあって、それをアート作品化したり、漫画化したり、文章化したり、お笑いコントにしたりするという仮想の考え方は、どこかで何かを限定してしまい、紋切り型の方向に持っていってしまうような気がしてならないのだ。
このことは、もう少し頭に置かれるであろう。

開館時間を終え、蔵の二階で谷村さんがプラン展示で作った様々なジャムを囲んだ。プチ打ち上げみたいな席を過ごす。僕がどんくさく、ああでもないこうでもないしているうちに、アートっていう生き物は敏捷に巣食っているんだなぁと思う。面白そうな企画が多い。

ゴルフをやって、ブービー賞。りんごとはちみつのジャムを頂いて帰宅す。

2 件のコメント:

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  2. masaka
    「もと」、は作品が作られた後に、後ろ向きに作られるのではないでしょうか?あくまで作られる前までは空っぽで、事後的に認識される。

    つまり、作った後になって、それを自分が認識するために意味を構築する。そんな気がします。

    精神分析では、症候とはこのような構造であると、ラカンという人は言っています。つまり症候が現れて初めて、その裏に潜む意味を知ることが出来る、と。前段階で意味を知っていたら、それは症候ではないということです。

    そんな風に僕は「もと」を理解しています。

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