昼のワイドショーで画家の報道がされていた。事は全国規模だ。大臣賞、だもんな。
書類の束を閲覧しながら、その画家を許していた業界というものを考えた。きびすを返して彼らは去って行くだろう。社会的にはそれが正しいとしても、絵に感動していた自分の心というものはどこに行くのだろうか。感動は倫理観と別のところに起こる。倫理観も感動も、どちらも満たされたいと人は思っている。いや、感動が倫理をひっくり返してほしいと思っている。僕はそうだ。元の絵があっても、それが優れていれば盗作とは呼ばれない。それは引用、間接的な場合は模倣と呼ばれる。芸術、文化にそれは必要不可欠だ。それが無ければ、人がわざわざ集まったり呼び合ったりしてものを享受しあっているこの社会、町は成り立たない。誰もが個室アトリエに籠っていればいいだけだ。それでは生きていけないから、真似をし合うなかで人は言葉を生んだ。
この町の行方、特にこの町の芸術、文化、更に限定すればアートの行方。僕には現代美術畑の、言葉を用いた表現媒体の行方。それを語ることは杞憂ではないはずだが、後になって、そんな側面を生かしていない自分の発言が恥ずかしくなった。後になって、どこかで勉強したことを露呈しているだけだと本当に赤面してしまった。今晩のバイト中はそのことがずっと頭の中にあって、いつもより疲れてしまった。
やりましょうね、また。と言って別れた同年齢のドラマーを思い浮かべる。
彼と音を合わせて、自分のことを「俺」と呼ぶか「僕」と呼ぶかで食い違ったりした。