水曜日, 7月 05, 2006

やさしい嘘

昨晩くっちゃべっていた頃に、ミサイルが発射されていたらしい。昼過ぎに起きてそれを知る。
「明日には私たちはいないかもしれないんだね」
という言葉に
「着弾は無いさ!」
と根拠があるのか、ないのか。
我ながら、93年のノドンから始まっていた悪夢だったなんて。みんな知ったこっちゃないって様子で、過ごしていた。
黙っている場合じゃないよとテレビが騒いでいた。
その通りだったが、今日は絵画教室の仕事がある。
今月の第三週の土日に、教室の子供たちの展覧会をすることになった。場所は教室を行っている「おさや手芸店」の二階に新しくできるカフェのような多目的スペースである。
それに出品しようという絵をみんなで描いた。
アカデミックもへったくれもない絵ができた。
強雨という予報を聞いていたので、少し早めに教室の時間を終えて子供たちを帰した。お迎えの挨拶をして、僕は原付で家路につく。
なんだか久しぶりにゆっくりすることができた。
その他の雑種2を開けつつ、アサリにトマトのリゾット、それと大蒜を塗り込んだバケットを焼いて食べ、三つほどに輪切りにしたトウモロコシを茹でた。サラ ダは大根の短冊切りに、キューピーのフレンチドレッシングだ。夕方にもまた一発撃ちやがったらしい。テレビもとうとう絶句しだした。

食べながら、映画「やさしい嘘」(監督,ジュリーベルトゥチェリ/エステール・ゴランタン/仏/2004)を静かに鑑賞した。おばあさんが主人公の映画で ある。少しぽぅちゃりした感じや、優しくも小憎らしい家族内での位置を見ていると、自分の祖母をダブって思い出した。映画の舞台はグルジアというソ連から 独立した小国であるということが、途中で分かった。そうやって徐々に描かれている世界が見えてくる。改めて、映画は前知識があまり無いほうが楽しめる気が した。映画の種類などにもよるだろうが、僕はこのごろ、この考えを強くしている。
陳腐な言葉で形容されると興ざめしてしまう。繊細な色彩と画面が続く。見ていて言葉を飲む。
DVD の特典メニューで、本編には削除したシーンの紹介があって、監督自らがコメントを話してくれていた。その中で、ラストの伏線になるというシーンが消された ことを知り、そっちのほうが映画に奥行きが出ると感心した。ただあらすじを追うものでないほうがずっと良い。グルジアにパリ、多くの歴史文化の事情にまと わりつかれながら人々は過ごしているという意味合いがそこには強く見ることができたからだ。

ミサイル防衛を徹底する前に、北朝鮮にやさしい力をかけることはできないものか。
哀れんでしまう。例えば嘘とか。
ウルトラマンは来ない。
もし経済制裁を行ったら、本当にやばいのではないかと思った。
かといって話し合いに応じる相手ではない。
もはや万事窮すなのか?
笑みを浮かべながら案じている私たち。