木曜日, 7月 27, 2006

ちょっとツラインダ

「まさしく ”家には帰れない” ですね!」
そう僕は電話で言い切ったが、そもそも浮遊する心にとって、ここが家ではないのだった。家が家に見えなくなるとき、世のお父さんは長距離切符を買ってしまう。「お父さんは心配症」(岡田あーみん/1983-88)、それは事実だ。
子供が独り立ちして居なくなった部屋は、二人だとがらんとしている。家族の言葉が話される前は、二人でも狭いと言っていたのに。
猫の鬱がずっと窓の外を見ていた。
僕はぽっかりと自らの胸に空いた穴を抱え、花を用意することでもできず。梅干しを天日干しにしたり、しまい込んだりした。
晩には言葉が返ってきて、ちょっと元気を取り戻した。
僕と彼女は、車を持っていない。
僕と彼女は、家族の言葉を持っている。
僕と彼女は、晩年を知らなかったはずなのに。
遠い目になってしまうのが悔しい。
もとの現実に戻されると急に映画の内容は、ドキュメントになる。
もともと、僕はそれだった。
用意された花、家族のような言葉、そのレベルに相当する暴力と狂気。家の中に散乱した生きるか死ぬかがやってきて、映画のように見え始めたのだ。
映画は人生の縮図だとか、映画を見ている間は全てが充実しているとか述べていた自分が、その中にいるようになるとは、人生は一皮剥ける度に、生きるか死ぬかだけが露になってくる。
大学での言葉が眠くなってしまうのは、それを保留しているからだ。学生映画にその突破口があることは、めんどくさがられて知られない。

昼間に部屋で一人聴く、鈴木慶一と高橋幸宏による「THE BEATNIKS」。これはネオビートニクを提唱していた?こんなに呑気に?
落ち込んだときにもめんどくさくない音楽。奏者も個性的でメロウでいいね。
梅干しがちゃんとしまってあるのを、猫の鬱と君が褒めてくれた。
僕らのキャラクターを認識して、これを脱ぎ捨て、映画やユニットワークに奔走しようか。手を繋いで単館系へ。
いまはパンツ一枚で畳に寝転ぶ私だけ。
「ちょっとツラインダ」(THE BEATNIKS/1987)。
君がイビキをかいている。

http://www.youtube.com/watch?v=7htU-hiCAGE&mode=related&sea