水曜日, 7月 12, 2006

強調したいところはしつこく描け!

重さがあって手が汚れる紙粘土を選んだ。大学の画材屋で数個購入。軽量や匂い付きのものは大人向けだ。子供には自分がこねくり回しているものの正体が掴めることが重要だ。
ワニやら孔雀やら、チョウチンアンコウやらを彼らは作った。
時間ぎりぎりまで潰してやり直したりを繰り返していた。

どこにも寄らないとメールで宣言して、原付で帰って、今日返さなければいけないレンタルの DVDを再生する。洗濯や洗い物など細々した雑務を入れながら「パッチギ!」(監督,井筒和幸/塩谷瞬、沢尻エリカ/2004)を鑑賞した。京都の朝鮮学 校、差別と喧嘩。恋愛と友情。1968年付けの青春映画。この時代設定が大きな要素。
相当に強引な話の展開をするが、しつこいくらい強調シーンの描写が重複しており、言葉ではなく映像体験としてごつごつとした感触を受ける映画だった。ああ だこうだの筋はあるが、実際のところは理屈ではなく感覚で描く部分に長けている監督だと思った。そのしつこいくらいの強調シーンとは、喧嘩、時代背景、家 族愛、それを守る為のそれ故に喧嘩と音楽である。つまり汗と涙、濃厚である。最終的には大団円となっているが、実際の諸問題を安直な物語の解決に帰結させ ず、スクリーンの外に放っているところも好感が持てた。それが 1968年であるとされているからこそ、抵抗なく進んでいく気がした。学生運動に対する呆れた態度の描き方などが楽しい。そして映画そのものでもある主題 曲「イムジン河」(ザ・フォーク・クルセダーズ/1968)が最高に美しく、1968年に加藤和彦が歌ったところから、現在に流れてくるという感じで気持 ちよい。
見終わってから何度も口ずさみ、歩いて DVD を返しに行った。
2004年に訪れた、韓国ソウルでのことを思った。楽しい思い出しかない。

台所にはタピオカを煮詰めて、水に入れておいた。帰りに牛乳を買って混ぜてドリンクにしようと話していた。近くの店は毎週水曜日がサービスデーなので、今日も二本ずつ借りようと話して、帰宅して僕が選んだ一本を我慢できずにプレイヤーに入れた。
牛乳にタピオカ、そして蜂蜜をコップに入れて混ぜる。机や椅子はそのままで鑑賞用の配置で。
その映画の名は「TAKESHI'S」(監督,脚本,編集,主演,北野武/2005)。
劇場公開のときから見たかった一本であった。キャッチコピーは「500% TAKESHI!」。いやはやまさにその通り。さっき見た映画とは打って変わって、荒んで内向的に病みを孕んだ映画。しかしこの映画も筋ではなく、実にしつこい強調シーンの連続重複フルコースだ!
「自分!自分!自分!俺!俺!俺!ME!ME!ME!タケシ!タケシ!タケシ!」
これでもかと続く強迫観念から逃れるのは、自分だけしかないのだが、その強迫観念そのものを生み出しているのは自分であるという根本矛盾が描かれる。それ はタケシ映画の中で常に見せられているものであり、その為にタケシは自分の無能である(ただの一人の男としての)才能が、もはや一滴も残らないくらいの枯 渇状態まで絞り出してみせた。タケシのイマジネーションに突き抜けた飛躍は無い。彼に前衛思考や、カオスに満ちた興奮は作ることはできない。彼は神経質に 言葉を選び、静かにその己の無能さに喘ぐだけである。彼自身がその矛盾をおそらくよく判っている。だが常にその声が現役として(五月蝿くとも)観客の耳に 聴こえるように、ステージに立つことを欲している。それだけが、彼を彼にさせている根本なのだ。
スローモーションで撃ち合われる銃撃シーンと、かつてたけしが「北野ファンクラブ」(フジ/1991-96)などで言いたい放題 高田文夫と講釈をたれていたシーンが同じように見えたのだ。
ここまでに自分を裸にしてみせる彼が格好良かった。
ここで、北野武のことを「彼」と書くのには違和感も感じるが、彼の存在は多層構造になっており「北野武」と「ビートたけし」に代表されるように表記の仕方 ひとつで解釈が変わってしまうからである。この映画自体がだからこそ「TAKESI'S」と題され、更に多層的に一人の男を描いているのだが、実はこの映 画の中で多層的なのは彼一人ではない。映し出されるもの、登場する人物は全て彼の心の中の現実把握の象徴であるから、その他の人物全てが多層的に扱われて いるのだ。

井筒監督の作り方、北野監督の作り方。二人は仲が良いのではないかと思った。居酒屋のイメージを想像する。
羨ましがっている場合ではない!
僕はすぐに感化される。始末に負えないしつこい奴だ。

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